息8月号 戦後70年・特別寄稿  今年は、1945年8月15日の天皇による玉音放送の「敗戦の日」を受け、米艦船ミズーリ号での降伏調印した9月2日から「戦後70年」。この節目の年に、安倍政権は「憲法違反」で米国従属の「安保法制」の成立を目論み、戦後50年の村山談話さえ「手直し」する「70年談話」を準備している。改めて「戦後70年」を振り返り、最前線で反戦・平和運動に取り組んでこられた2人に寄稿頂いた。(編集部) 被爆70年目の8月に思う       森  重子   私は9歳のとき、原子爆弾の恐怖を知りました。あの日の爆弾は私の家族をばらばらにし、今日まで被爆した人びとを苦しませています。もう70年も経つというのに。  兄は長崎県立瓊浦中学校(爆心地から南西方向、現在は県立長崎西高等学校)の1年生。あの日、英語のテストで登校へ。11時2分の頃は授業が終わり、近所の同級生は電車で千馬町(現出島町付近)まで帰っていた人もいましたが、兄は夜まで待っても帰ってきません。両親は友人を尋ねて回り、浦上川へ泳ぎに行ったようだとの話で、翌10日から約1週間、私たち姉妹を祖父母に預けて、浦上川方面(爆心地近く)へと兄を捜して歩いています。爆死した人が多くて兄を捜す事は出来ず、中学の中庭で骨を1本貰って葬儀を済ませました。  1946年原爆落下の翌年10月15日母が胃痛の病名で死亡しました。妊娠5カ月でした。両親は爆心地に1週間入り、2次被爆を浴びているし、今考えても被曝死としか思えません。  翌年の2月12日、父も亡くなりました。母32歳、父41歳です。残された祖父母、5人の姉妹。祖父は自分の親類・兄弟を探し、電話で私たち姉妹を育てて呉れないかと相談したようです。 佐世保在住の親類が、姉妹3人を引き受けてくれ、私は、祖父の妹になる「山崎」の家に引き取られ、小学校5年生から引っ越しました。その後中学校2年で長崎の祖父母の所に戻り、中学卒業後52年、県庁の採用試験を受け、定時制高等学校の試験と進みました。この時も両親が居なくて高校へは絶対に行けないと悲しんでいた私に、県庁の試験・定時制高校の入学を進めて下さった先生のご恩は、忘れることがありません。 当時の県職員組合(現在の県職連合)とのことは、60年安全保障条約反対闘争(第1次安保闘争)の頃、毎日集会が持たれていて、誘われて参加したのがきっかけです。62年頃青年婦人部の役員になりました。 その後、私の結婚・出産で役員を辞めていた頃、女性が働き続けるために必要な保育所の事を学び、ゼロ歳を預かる保育所作りの運動を始め、65年1月、長崎市の旧築町市場の屋上に乳児専門の保育室(名称は合同保育所)を開設することができました。 今年は、原爆が落ちてから70年目の節目の年です。母がそして父が、兄が生きていてくれたらどんな生活が出来ていただろうか、ときどき思います。 今、再び同じような「安保関連法案」が自民党・公明党の手で作られようとしています。2度と私が苦しんできた戦争が繰り返されてはなりません。 子どもや孫たちから、「その時なぜ反対しなかったのか」と問われた時、しっかり答えが出せる取組みをしていきたい。 もり・しげこ 1936年7月2日生、79歳、長崎市出身。県立長崎東高等学校定時制普通科卒業。52年3月長崎県庁入職、62年県職長崎支部青年婦人部役員、87年県職長崎支部長、90年県職本部副執行委員長の任に就き、被爆者として女性として県職組合運動をけん引してきた。97年3月長崎県庁定年退職(消費生活センター所長)、97年4月総務省所管行政相談委員~現在に至る。62年から女性団体ー日本婦人会議(現ℓ女性会議)所属。 被爆県・長崎が果たす役割は大きい   坂本 浩 昨年7月の集団的自衛権の行使を容認する閣議決定にもとづき、安倍内閣が国会に提出した2つの安全保障関連法案が、3分の1の議席が空席のまま衆議院での可決が強行された。憲法学者をはじめ多くの識者や専門家から違憲立法との指摘を受け、世論調査でも6割を超す国民が反対し、国会周辺では連日のように抗議デモが繰り広げられていたが、こうした声を一顧だにしない強引さだった。 日本に対する急迫不正の侵害という事実に即した判断ではなく、他国への攻撃が日本の「存立危機事態」になるという時の政権の価値判断によって、実力組織である自衛隊の行動が拡大し、日本有事ではなくとも、切れ目なく米国等への軍事協力が地球規模で可能になる。まさに、海外で武力行使をしないという原則を、被爆・戦後70年の節目に大転換する事態である。 政府・与党は、あらゆる事態に切れ目なく対応し、抑止力を高めることで戦争を未然に防ぐと主張する。参議院の審議でも、原発へのミサイル攻撃対処やイラク戦争の総括が野党議員から質されたが、安倍首相を含めて正面から答えきれていない。切れ目ない軍事力を確保するためにはどれだけの経費が必要なのか分からない。 専守防衛の制約をなくした抑止力は、周辺国の脅威となってこの地域の軍拡競争を生み、いずれ核兵器保有の道を歩むかもしれない。日本は非核国で分離プルトニウムの保有が突出しており、ただでさえ核拡散の疑惑の眼差しが向けられている。 本県は離島国境が多いとして、県議会では法案成立を促す意見書が可決されたが、国境警備は現在の法律で可能ではないのか。逆に本県が古くから築き上げてきた周辺国との地域的な友好関係、経済や文化、人的な交流に支障がでないか心配である。 さらに、「存立危機事態」で国民保護計画の発動が必要と判断されるようなことになれば、市民生活にも大きな影響を与える。民間施設の使用や物資の収容、港・空港・道路の優先使用、医療・建築・輸送業者への業務従事命令など、自治体や民間の動員体制はすでに整えられているのである。 1999年の周辺事態法、2003年~04年にかけて成立した有事法制(国民保護計画)、そして今回の安保法案に連なる一連の「戦争への備え」は、原発再稼働と同様、地方自治体の協力なしには進められない。 自分たちの暮らす社会・コミュニティのことは自分たちで決めるという「自治」を、こうした国策は容易に踏みにじる。安全保障の問題は国の専管事項ではなく地方自治の問題でもある。沖縄に象徴されるように、「国策」をめぐって政府と自治体、あるいは政府と住民の対立もありうるなかで、地域からいかに平和を創りだしていくのか、平和運動とともに被爆県の自治体が果たす役割は大きい。 無関心は政治の暴走を生む。戦後・被爆70年が戦前元年にならないよう、被爆地からさらに声をあげることが必要だ。 さかもと・ひろし 1959年2月13日生、56歳、長崎市出身。県立長崎西高等学校、福岡大学商学部を卒業後、1982年長崎県労働組合評議会に書記として入職。93年県労評センター事務局次長、96年県平和・労働センター事務局長、2001年県平和運動センター事務局長に就き、長年、毎年の長崎での原水禁大会の運営を支え、県内や全国での反戦平和運動を先頭で担ってきた。2015年4月長崎県議選に立候補し初当選(1期目)。